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ブラタモリ #22 札幌~なぜ札幌は200万都市になった?~のあらすじと感想

ブラタモリみました。今回はタモリが大好きという札幌。タモリさんはすすきのが好きだそうです。35年前よく飲んだとか。

今回のお題は「なぜ札幌は200万都市になった?」。案内人は博物館センターの古沢さん。札幌の人口は約200万人で日本第5の都市。札幌の開拓は明治2年に始まった。当時はアイヌの人しか住んでいない。豊平川のほとりに倭人はわずか2戸(名前は茂八と鉄一)。7人。アイヌの方は数十人。
それからわずか150年でなぜ札幌は200万人になったのか?

札幌駅のすぐ近くに北海道庁旧庁舎がある。なぜここに開拓の拠点を置いたのか?
札幌の街は碁盤の目というイメージがあるが、旧庁舎の裏側に道が曲がっているところがあった。実は昔、池と川があったせいで曲がっている。
川をたどって行くと、北大植物園に入った。きれいな水が湧き出している。明治には湧き出し口が13か所あった。

実はここは扇状地だから湧き出しているのだ。扇状地はそれほど広い面積ではない。扇状地のとなりは泥炭地。水分が多く、人の暮らしには向いていない。
扇状地と低湿地の境目に行く。かつての川の下流に向かっていく。道が下がっている。川の痕跡がみられる。

ここが地図にあった快楽園の場所。
井頭龍神(いのかみりゅうじん)がお祀りしてある。
偕楽園公園。明治30年代、料亭があり賑わった。
北海道大学に入る。川が流れている。これは復元したもの。校外を流れて川が流れていく。クラーク博士の銅像があった。クラーク博士の見ている先が扇状地と低湿地の境だ。
キャンパスの中にあるかつて低湿地だった場所に行く。低湿地を農地にできたからこそ200万人になった。

低湿地をどうやって人が住めるようにするか?
それはにはまず排水を考えないといけない。北大の外国人教師が農業排水の研究をしており、土管を埋めた。農地全体の水がしみこみ排水できる。
周辺の排水のため溝を掘って人工の川をつくった。この新川は10キロも掘った。治水のため人の手が加わった川がたくさんある。

低湿地の排水→農地が広がった→市街地となるための受け皿になった。

今度は大通公園の南側にいく。和菓子店の千秋庵。地下90mからの水をタモリ、桑子アナが飲む。やわらかい水。「このお菓子にも伏流水が使われている。」新しい案内人はタウン誌編集の和田哲さん。すすきのに行けば、町がどう拡大したかがわかるというので、すすきのに行く。

100ma道が凹んでいるところがある。ここは塀があった。土塀だ。遊郭があったのだ。遊郭は開拓が始まってわずか2年後の明治4年に作られた。4ブロックある。遊郭は町のはずれに作られた。40軒の料亭があり、400人の女性が働いていた。

開拓当時は役人と職人の男ばかりで、寒い時期になると男たちは実家に帰ってしまう。そこで男たちをつなぎとめるために、政治的な戦略で開拓使が遊郭を作った。遊郭がなかったら札幌の町の発展はなかったかも。明治8年遊郭の周りにすでに町ができていた。すごいスピードで町ができた。

大きな寺の近く。碁盤の目でなく道が曲がっている。碁盤の目になっていない所が札幌発展の痕跡だ。
開拓使が作った町は碁盤の目になっている。すぐ近くに別の町があった。山鼻村だ。その境目がビミョーにずれている。そのずれを無理やり修正しようとして道が曲がった。
明治29年20近くの農村があった。同時多発的に町ができて、パッチワークのように貼り合わされて町ができた。
昭和20年以降の戦後、人口が急増した。炭鉱が次々と閉山になり人々が押し寄せた。農地が次々とつながった。こうして札幌は200万都市になったのだ。

豊平川のほとりにやってきた。茂八の石碑があった。「札幌開祖 吉田茂八」。もう一人は志村鉄一。

札幌は平地と思っていたらとんでもなかった!

(感想)
いつもながらタモリさんの博識ぶりには感心しました。池があった、とか、扇状地とか、排水がまず必要、とか、案内人がタジタジとなるほど正解を連発するのです。さすがですね。それをひけらかさないのも謙虚でいいですね。タモリさんすごいです。

桑子アナももっとしゃべればいいのに。遠慮しているんでしょうか。そんなにおしとやかにタモリさんについていかなくてもいいのに。もっと自己主張してもいいと思います。

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